日記~腹を割るということ~
3~4日に1記事が自分に向いてるのかな、、、
てなわけで今回は、腹を割るということについて。
私は周囲からよく「お前ってあんまり腹を割ったりしないよな」といわれる。
その延長で、「腹割って話そうぜ!」なんて言われるのだが。
はっきり言って、この時点でKYな発言だと私は思うわけで。
何故なら
腹割って話したくない
かた、割らないのである。そこを気づけているのに、なぜ拒絶の意志は汲まないで要求するのか。心底解せない。
で、腹を割らないにも2種類あるな、と考えるわけです。
1.割りたくない(信用できないor好意を持てない)相手である
2.腹を割った話を聞かせたくない(不要な感情を押しつけたくない)相手である
この二つかな、と。
1.は言わずもがな。
問題は2.にあるのです。
私は、上京してから、関東で知り合った人間に何かを愚痴ったり、ということはほとんどしなくなった。
すべてが1.の理由ではないのだ。
聞かせたくない相手がいる。
そう、私の話(話し方、も話のなかに包含してもいいだろう)は、聞いている相手の感情を大きき揺さぶるのだ。
(何人ものリアクションを見ていて、また他者からの評価も加味して判断している。私はストーリーテラーとして一定以上の能力を備えてしまっている)
結果、聞いた相手は私に対して、義憤を感じたり憐憫を抱いたりするのだ。そして、私の価値観、考えを生半可な形で備えてしまい、その後の思想や言動に影響を出しかねないことになる。
それが嫌なのだ。
私の話は十中八九聞き手の人生を少なからず負の方向に引っ張る。
こんな悩みを抱えて眠るとしよう。
理解してくれる人なんていらない。理解してほしいとも思わない。
ただ、暗く染まっていく視界を照らしてくれるような、明るい笑顔を向けてくれる人に聞いてほしい。そして、笑い飛ばしてほしい。人生を照らしてほしい。
贅沢なことだ。
おやすみなさい。
以上